「物語」は文学から映画、勿論TVゲームにおいても存在する装置である。そしてエンターテイメントだけではなく、「物語」は現実の社会にも存在し我々の生活に浸透する。これらの物語は一体どういった構造で成り立ち、送り込まれ、そして解釈されるのか。
TVゲームという存在が成長プロセスに組み込まれ、それまでのスタンダードなエンターテイメントと同等にTVゲームという物語を享受する世代にとって、そこに存在する物語を理解することはその他に存在する物語を解釈する上で大きなメリットになる可能性がある。それはゲームを作る側にとっても、享受する側にとっても同様だ。
本書では様々な物語と現実に交錯する問題が述べられているが、注目すべきは物語の
構成方法やその解釈方法である。特に「プロップの物語の31の機能」や「Dramatica」といったソフトウェア、そしてRPGのアーキテクツである「TRPG」の物語とは何なのかといった考察を為すことで、物語がどういった構造を作り、それが何を意味し、受け手にどのような作用を及ぼすかといったことを確認することができる。そして現在展開されているゲームや映画、小説などがいかにそれらを踏襲し、また未だ超えられないということが見えてくる。
第1章 創作する読者と物語るコンピュータ
近年の「物語」とはどのように定義され、そして作られているか。特にコンピュータによって作られる物語やそれらの手を借りて作られる物語の構造や問題点などが述べられている。
第2章 キャラクターとしての「私」
物語として私小説が盛り上がった明治、昭和にかけての小説家たちの動きが述べられている。また現代に入って若者たちの現実感が何故希薄化してしまうのか、文学にとっての問題が挙げられている。
第3章 イデオロギー化する「物語」
現代のマスメディアが流通させる物語が大衆をどのように動かしているのか、そしてそれがもつイデオロギー化の問題とコンピュータが物語を構築していくリスクが述べられている。
あとがき なぜ、ぼくは「近代的言説」を「擁護」しようとするのか
本作の集約として、イデオロギー化し、我々を動員しようとする物語に対してどのようなカウンターが存在するのかという考察が述べられている。物語という装置がメディアを介して私的領域にまで侵入する現状を、我々はどういった方法で対抗することができるのだろうか。
(文責:浅田恵佑)
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