「児童の世紀」というエレン・ケイ女史のスローガンではじまった20世紀。それは当時世界を席巻した進化論を下敷きにした、優性遺伝を残すための思想であった。しかし、20世紀も終盤に来たというのに、続発する少年犯罪や親の喪失感。いったいこの世紀は子どもたちに何を行ってきたのかという総括を試みたのが本書である。
医学・薬学の発達は、乳児の生存率を伸ばす代わりに、生むことも育てることも人の力で操作可能となり、子を”作る”という操作可能なものにした。 心性の歴史をふりかえってみると、こうした進化=進歩=価値という考え方が、工業発達による公害の反省から見直されるパラダイムチェンジがおこり、こども学、こども論にも、優性一辺倒の思想以外のもの(神秘的で謎めいたユング心理学のようなもの)が平行しするようになった。
別章では、学校という装置が肥大化したゆえの限界や、活字、アニメなどの新メディアにおいてけぼりにされた親の悲鳴を考察。俗にポケモン事件と称されるアニメ映像で、倒れた子どもこそ本来の子どもとした親の姿に対して、子ども側の「倒れなかった子どもが多くいた方が事件ではないのか」という話し合いは、そんなズレを浮き彫りにしている。このあたりは各章の間にある短いコラムが読みやすい。
根底に流れるテーマは、おそらく優生重視思想の批判なのだろう。終章で、作者はそんな世紀が生み出した最大の遺産が、1989年、国連総会で決議された「子どもの権利条約」だと言う。楽天的な優生学ではじまった世紀だが、優生劣生のへだてなく、世界中すべての子どもの生存権や養育権を守ろうとするこの条約。難しい命題だが、それを遂行するのは、私たち父親・母親予備軍の問題であろう。
(文責・藤田)
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